テニス経験からラケットデザインが始まる

中学生(45年前)から軟式テニスを始め、その当時軟式テニス(現在、ソフトテニス)の名門であった巣鴨高校テニス部にはいり1年生でレギュラーとして練習させられたのを今でもわすれません。その結果、関東大会優勝(決勝戦で浦和高校とあたり勝ちましたが、なんと第1シードが中学時代の先輩には、ビックリしました)私は補欠ですがね。そのままインターハイ補欠出場でベスト8。しかし、成績不振と怪我で2年生を前にして退部。退部したことがよかったのか、現役で芸術学部映画学科に入学。

卒業後、映画会社勤務をへて、デザイン会社にカメラマンとして入社、2年後、独学でデザインを覚えてデザイナーの道を歩みます。

デザイン業は想像&創造の世界で当初はストレスが溜まり、酒と?に溺れていっことを覚えています。今では考えられませんがね?

たまたま、テニスラケットデザイン制作(硬式、軟式)の話が来たときは、一寸うれしかったですね、テニス経験があることで担当となり事務所を設立してからもラケットデザイン製作を続けました。

ちなみに依頼があった会社は歴史あるテニスラケット製造メーカー「フタバヤラケット製作所」、その当時はカワサキラケットと日本市場を二分しており、木製からカーボン製造の切替え時期が遅れ両社とも衰退していきました。いま存在しませんが親会社は健在。そのころはヨネックスの一人勝ちでした。

ここで、木製とグラファイト製造の話をします。
木製は製造工程が多く、一枚の板を重ね合わせ、熱加工して折り曲げ、乾燥し面を削ります。つぎに表面塗装してからフレーム面にそって絵筆を使い、フリーハンドでラインを描き最後に水転写シートを貼りけます。その技術は熟練者が支えていました。

グラファイト製造、ここから私のラケットデザインが始まり。
現在の製造工程はわかりませんが、その当時はカーボンシートを丸め、型に入れ、空気による圧力加工してあっという間にラケットの形状ができました。表面塗装もぼかし技術が加わり、欧米に近づいた感じでした。
塗装については色の調合師がいましたが、自分で納得いかず自ら調合した製品を開発。その結果見事に失敗して在庫の山、本来だったら取引禁止なんでしょうね?だけど成功した商品もあったので、なんとか免れました。(担当者のおかげです感謝!!)

こんなこともありました。それは中国製品ですが製造する上で最終的に重さやグリップの調整を行います、信じられませんが重量不足のものはグリップ底に釘を入れて重さ合わせていたのにはビックリですね。練習を繰り返すうちにカタカタと音がしたときに始めんて気がつきます。今では絶対ありえません。そんな経験はありませんか?

そのころから売上が落ち始め、海外ブランド「ランセル」「トラサルディ」でラケット製造が始まり、結局ブランド志向が技術衰退を産んでいったようです。

話がそれましたが、当時の技術担当者と一緒に実業団の試合を経験したりラケットの試打をしながら硬式テニス技術を身につけ、今でも毎週1日練習を積んでいます。フォームは軟式スタイル(ソフトテニス)が抜けませんが、自称ケン・ローズウォール似のフォアハンド、バックは苦手ですがパワーテニスはまだ健在。

最後まで、読んでいただきありがとうございました。

090810_01

3世代(現役プレヤー、82才の母)でのテニス風景